モモ●

入院中に、念願だったエンデの『モモ』を読みました。
これは子供のための童話なのか?
知っていながら判っていなかったことに気づかされる作品。

人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。

この作品の中にエンデの時間軸に対する観点が要約されている気がします。心と時間は一体となって鼓動し、お互いを感じとる。
少しの無駄も許せず、心の豊かさも忘れてせかせかと生きる。気づかずに合理主義になっていく。最近の私は実にそんな生き方をしてたと思うのです。
もっと心に余裕を持って、いろんな人との時間を大切にしたり、いろんなものに耳を傾ける時間を持てば、きっともっとゆとりがもてるのに。
せかせかとスケジュールに終われて、人との関わりを後回しにしたり、いろんなことを見ないフリしてきました。
きっと心の豊かさについては知ってたのに、自分のゆとりのなさには気づいてたのに、それをどうしたらいいのか、よく判ってなかったんだなと思います。
今この作品を読んで良かった。

『モモ』の話に戻ります。
時間の花という儚くも美しく具象化された存在も、時間の無常を表すにピッタリのモチーフです。
灰色の男たちは、その"生き物"である時間の花を殺して葉巻にし、灰にすることで生きられる。
巧妙で理に叶っている設定。
日本語でのみ感じられることだと思うのですが、時間泥棒たちの"灰色"と、主人公モモから連想される"桃色"の色彩が、とてもこの世界にぴったりな気がするのです。
どちらも淡いコントラストで、時間の国へ行く途中にある白い街のように、靄がかった夢の中みたいな世界への旅人として、合うと思う。
桃色という安心感のある色に対し、全てのなれの果てのような灰色という色は、ここでは対極的で。
エンデがドイツ人である限り『モモ』が色を表していないことは明らかですが、こんな見方も面白いかもしれません。
さて、最初にも書きましたが、この作品は子供のための童話なのか?
今もう一度この本をめくって気づきましたが、作品の冒頭に、アイルランドの旧い子どもの歌が載せてあります。

やみにきらめくおまえの光、
どこからくるのか、わたしは知らない。
ちかいとも見え、とおいとも見える、
おまえの名をわたしは知らない。
たとえおまえがなんであれ、
ひかれ、ひかれ、小さな星よ!

これは子供に対する願いを込めてエンデが載せたものだと思います。
未来の大人である子供たちに向けた作品。この作品は、豊かな時間を過ごして欲しいという願いであり、その心を忘れないで欲しいという祈りであり。そしてそれを忘れかけた大人たちへのメッセージでもあるのではないでしょうか。
作者のあとがきにもあるように、この物語が"将来おこること"としての現代への警告としての意味もありえます。
また、訳者のあとがきにあるような"芝居と観客の関係"として、この物語を通して現実の世界に目を向け、考えるきっかけとなったら…。
そういう意味で、この物語は子供へでも大人へでもなく、"現在"を生きるすべての人へ向けた作者のメッセージなのかもしれません。