¥劇論●

昨日のゼミで発表した班が先生に沢山注意を受けていて、次回発表かつ最後の班である私たち『橋づくし』班は焦って資料を洗い直しているところです…
しかも2週あるゼミ発表の間にレパ締めになりそうだから…。もうノンストップでパソコン稼働中ですね。
新歓脚本を書くのは楽しいです。
然し遅々として進まず。
レパ締め(脚本の締め切り)も早まったりで、焦ってる。既成の脚本も一応用意してるけど、これは人数を考えたら丁度良いんじゃないかって思うだけのレパで。初めて自分たちだけでやるには難しい脚本だと思うから、やりたくはないのです。

鹿鳴館』の歌舞伎的だと思った点を、もう少し具体的にしてみようと思いました。
直接的な感情の露出ではなく、怒りも悲しみもオブラートかレースかに包まれてまろやかな刺激になっていた。感情をワンクッション置いて外に出している…?
台詞の言い方が相手に向かってというより、宙に向かって話すようだった。心の声で会話しているような。
あと、いつでも視線が真っ直ぐだった。相手を見る目も、正面を見つめる目も真っ直ぐだった。
姿勢も素晴らしく真っ直ぐで堂々としている。
また、芝居に焦りは微塵も感じられなかった。どんなに上手く演じても、演じる人本人の人間性とかがにじみ出てくる気がするのですが、それが全くなかった(これは歌舞伎でも難しいことだと思います)。
演劇は練って練ってつくられるもので、この作品もその蹟が見られる、綺麗な光沢をした水飴を思わせるような、完成度です。
でも演劇にはもうひとつ、偶然の美しさという要素があります。それはたぶん楽日に清原が久雄の話をした途端に散った菊の花びらのような、その瞬間だけにあった奇跡。
練り上げた潤沢感と、リアルタイムの美しさを大切にした舞台をつくりたいと思うのでした。

でも、何のポジションになってもがんばろう。強く強く思う。