マイグランパ●



過去最長です。

そして内容重いので…

重量も過去最高です




















一昨日の朝、父方の祖父が亡くなった。
生まれた時からずっと一緒に住んでいた。
小さい頃は一緒に絵本を書いたり、五目並べをしたり、雑誌の付録を作ったりしてくれた。畑で育ててるトマトやエンドウ豆を採らせてくれたり、一緒に草刈りしたりしました。あの頃は鎌を持つのが楽しくてしょうがなかった(危)
思えば、幼稚園に入る前の小さな頃から、おじいちゃんおばあちゃんに話す時は敬語だった。強要された覚えはないが、お姉ちゃんもそうしていたから?違和感なく、他の親戚にも敬語を使っていた。友達に指摘されて普通じゃないと分かったが、別段直す意義も感じなかったので、そのまま。
小学校に入ってからは友達と遊ぶことが増えたけど、休みの日は家族一緒にお茶を飲んでお相撲観てた。入学から卒業まで、毎月予約して小学館の学年雑誌を買ってくれてた。知らない先輩に、お前の爺ちゃん東大卒なんだろって言われて、冗談だと思っていた。本当だったと知ったのは、それから随分経ってからのこと。毎朝おじいちゃんの家の仏壇に拝んでから学校に行くのが日課で、その後はおばあちゃんと一緒に門の前で見送ってくれた。
お正月やお盆を始め、お祝いやイベントを欠かさない人だった。家族や親戚の誕生日はちゃんと覚えていたし、旗日には朝一番に門の前に国旗を掲げた。節句や名月の日にはそれ相応の昔ながらの準備をしてくれた。私に兄弟がいたら、きっとこいのぼりも揚げてくれただろう。明治43年生まれの頑固な気質は、我が家の正確な古時計でもあったのだと思う。
中学に上がって、自転車で通学するようになってからも、毎朝の見送りは変わらなかった。私はというと、仏壇に拝む日が減ってきていた。おじいちゃんと日に話す回数も、この頃から少なくなってきてたような気がする。文化祭の発表を見に来てくれた時は嬉しかったが、後から校長室に挨拶に行ったと聞いて恥ずかしくなったのを覚えてる。
昔から耳が悪かったが、日に日に耳の遠くなっていくおじいちゃんは、頑固な性格も相まって親戚からも邪険に扱われている気がした。お盆の時にそんな確執が見えて、この頃のお盆には良い思い出があまりない。でも、家族で一緒に行った流しそうめんは美味しかった。
高校に入って、さらにおじいちゃんと話す機会は減った。
演劇部に入って忙しくなった私をおじいちゃんはよく心配してくれた。文化祭に一年生の時だけ見に来てくれた。アルツハイマーがテーマの演劇。おじいちゃんは、どんな気持ちで見たのだろう。
おじいちゃんは写真も好きだった。行事があるとよく家族の写真を撮ってくれた。私が写真部に入ってから、その役目はほとんど私のものになった。おじいちゃんからの入学祝いで買ったデジカメで、通学時や庭の写真をよく撮った。時々現像しては、おじいちゃんおばあちゃんにも披露していた。
昔から可愛がられて少し子供扱いされていた部分があったが、高校に入ってからはおじいちゃんも高度な話を私にもしてくれるようになった。話してくれたのは高橋是清のお孫さんと同期だったそうで、二・二六事件の話。この話をはじめて聞いた時、私はもっとおじいちゃんの話を聞いて、覚えておかなければいけないと感じた。日本史を専攻してからは私もそういった話に興味を持つようになったし、自分から「戦争の話を聞かせてください」と言ったこともあった。おじいちゃんは最初困ったような顔をして、帝国大学時代に軍事用の伝書鳩を飼育していた話やシベリア出兵の話、戦後の生活について等話してくれた。私が質問しても耳が遠いから、なかなか伝わらなくて、それでも頑張って聞いて答えようとしてくれた。
毎年大晦日の乾杯前に挨拶があって、おじいちゃんは数年前から、これが最後の正月かもしれないと言っていた。私はそのたびに泣いていた。おじいちゃんは数年前から身辺整理をして、自分のものを捨てたり、人に譲ったりしていた。
去年の夏頃まで、自転車で買い物に出かけていた。元気が取り柄だったが最近はフラフラで、家族みんな心配した。転んで怪我をしてからは自粛したらしく、…ほとんど買い物はヘルパーがやってくれた。外に出ることは稀になり、庭か畑、出かけても近所のコンビニくらいだった。
しっかりしていたおじいちゃんだったので、呆けることはないだろうと思っていたのに、だんだん時間感覚が失われていった。
毎朝おじいちゃんがめくっていた日めくりカレンダーの日付が、気づくと数週間進んでいた。一日に何度か昼寝をするので、起きた時にめくると自然に日にちが進んでしまうのだった。
おじいちゃんは大学受験に行く前の私にアドバイスを箇条書きにして渡してくれた。合格が決まった時、おじいちゃんは昼寝してたけど起こして伝えた(笑)。すごく喜んでくれた。東京に出る前、私が行く大学にいた友人の話、東大も近くだから行ってみると良いと話してくれた。
ゴールデンウイークに帰ってきた時、随分痩せたのを感じた。大学でこれからやりたいことを話した。
夏休みには、お盆過ぎの花火大会に合わせて帰ることにした。お盆に帰らない私をおじいちゃんは失望すると思って、稚拙な文章で手紙を書いた。後から聞いた話では、おじいちゃんはその手紙をすごく大事にしてくれたらしい。夏の帰省は、二泊三日だった。中1日で何をしたかというと、当然家族との時間はほとんどなく、おじいちゃんおばあちゃんともろくに話しもせず帰ってしまった。
次に会うのが、病院で。もう二度と話せないなんて、思ってもみなかったから。
なんでもっと時間をとらなかったんだろう。
9月の終わりに、おじいちゃんが意識がなく入院したと聞いて、その日に父と秋田に帰ってきた。もう消灯時間を過ぎた病室のベッドで、おじいちゃんは酸素マスクと血圧計をつけられ、点滴を受けながら眠っていた。おじいちゃんの手は冷たく、顔色は青白く、今夜どうなるかわからないと言われた。伯父さんが病院に泊まり、私たちは気が気でなかったが帰った。次の日病室に行くと、少し顔色を取り戻し、酸素マスクがはずれた状態で寝ているおじいちゃん。手を握ると、あたたかい。どうやら一命は取り留めたらしい。ホッとしたのもつかの間、伯父さんに、おじいちゃんはもう目を覚まさないだろうと言われた。
昨晩は暗かったのであまりわからなかったが、昼間に見るおじいちゃんの手足は骨に皮だけで、はだけたパジャマからは肋骨が浮き上がっていた。
もう二度とおじいちゃんは目を開けない、もう二度と話ができない。耳の遠いおじいちゃんの、かろうじて聞き取りやすかった左耳に話しかけた。「私です、おじいちゃん、わかりますか」
少しだけ、反応があった気がした。少しだけ顔を傾け、私のほうを向いてくれた気が。おじいちゃんは、生きていて、意識も本当はあって、目を開けたいのに、話したいのに、瞼も、口も、思うように動いてくれないんじゃないか、そう感じ、悲しかった。
病院の対応は優しかった。丁寧で、信頼できる気がした。
これからどうなるのか全くわからなかった。伯父さん伯母さん、母や姉もこれから大変になると予想された。
私はそこから切り離されるように日常に帰った。逃げるように、忘れるように、自分のために生きる生活へ。
1ヶ月過ぎた一昨日の朝…奇しくもおじいちゃんのお母さんと1日違いで、おじいちゃんは亡くなりました。
亡くなる前日に、伯父さんから連絡が来て、覚悟はしておけと言われていましたが…。覚悟なんて出来てなくて、朝の電話口で泣いてしまった。
おじいちゃんの言葉を、もっと大切にすれば良かった。
帰って来て、玄関からお盆の時しか嗅がないような…線香の香りが立ちこめていて、不思議な感覚だった。部屋には花がたくさんあって、その奥に布団と…白い布
布団の上には朱い織物でくるまれた、刀とおぼしきものがあって、先月帰ってくる時に読んでいた「恍惚の人」を思い出す。あの刀は、家にあったのだろうか。…まさか。
私はお焼香の仕方も知らなかったので、お線香を上げて、手を合わせただけだった。白い布をめくる勇気はなく、その後すぐにお坊さんの読経がはじまったので大人しく座っていた。お経と言うより、漢文の書き下しを聞いている感じだった。たぶん、おじいちゃんへ天国への生き方を教える言葉だったんだと思う。
昨日は人や電話が来たり弔電が届いたり、ひっきりなしで、コールセンターってこんな感じ?と思った。お花もたくさん届いて、いいとものテレホンショッキングを思い出す。大変だけど、おじいちゃんの人徳だ。喜ぶことなんだろうな。私は誇りに思う。
おじいちゃんは戦後獣医をやっていて、数年経って元武人も公務員になれる時代が来てから教職に就いた。ああだからいろんな分野に知り合いがいて、年賀状もやたら多かったんだと今更知る。
きっと明日も忙しいけど、この忙しさは昔からあるもので、慣習だとしても、悲しみを紛らわすため先人の知恵だとするならば…今は悲しみに浸る間もないくらい忙しいのがちょうど良いんだと思う。私が周りの人を支えてあげねば!
初めての体験ばかりですが、すごく大事な時を今過ごしてると思います。